テキスト

綿引展子――いま、ここにあるわたし

小勝禮子(栃木県立美術館学芸課長)

 綿引展子の絵は、まずその色彩の鮮やかさで人目を引く。ピンクや緑、ブルー、チャコール・グレーなど、ちょっと上等な西欧のお菓子の包装紙のような、わくわくする喜びをかき立てる絶妙な色彩の組み合わせに惹かれて、思わず視線を向けてしまう。しかしながら捉えられた視線の先に、見る者はざわざわとした胸騒ぎや、何かこつんとした固いものに、否応なく突き当たることだろう。なぜなら綿引の絵には、彼女自身がこれまで生きてきたうえでの違和感や、怒りや叫びが、クールな表面の裏側に籠められているのだから。

 「私はひどく悲しいので何かを作り出さずにはいられなかった。」と、綿引は自分がこれまで描いてきた絵と自分の言葉を組み合わせた作品集『手の中のこころ』(晶文社、2008年)に書く。その一方で、少し後のページに「私はこれまでほんとうに悲しんだことも、心底後悔もしたこともなかった。」とも書く。

 どちらもほんとうの気持ちだろう。彼女は、自分の生々しい痛みや感情を心の奥底に閉ざして、気づかぬ振りをしながらも、どうしてもやむにやまれぬ思いに突き動かされて、絵を描いてきた画家なのだろうと思う。そこには、おそらく、アウトサイダー・アートと呼ばれる、独学の、社会から孤立した画家たちの作品と共通するところがあるのではないか。こういう批評は綿引を怒らせるより、喜ばせることだろう。ここで筆者のいうアウトサイダー・アートとは、「無垢」の、「純粋」な魂の生み出す絵という意味ではなく、社会や美術の「規範」を外れた絵という意味で使っている。ただ純粋なだけではなく、規範の中にいる人間の常識を疑わせ、覚醒させる、「毒」を備えた絵とも言えよう。

 1958年、戦後の復興期に東京の中心部に生まれた綿引は、事業に失敗した不機嫌な父と、自分の仕事を持って自立したしっかりものの母、きれいな良い子の姉の4人家族のなかで育った。「母とお揃いの着物、遊園地、温泉のゆかた」。誰にも覚えのある楽しい幼年時代のはずだが、彼女には自分がそのときにどんな気持ちだったか、思い出すことができないと書く。いつも観客の、傍観者の自分。

 失われた幼年時代を取り戻すために、綿引はまず、子供の頃の自分の写真を入れた箱を作り始めた。1984年頃のことである。1960年代には貴重だったモノクロの記念写真のなかで、姉と並んでポーズをとっている自分。当時の「親が望んだ子供」の姿がそこにあった。繰り返し、繰り返し、同じポーズをとる幼女の自分のまわりに、大人になった自分が絵を描き、色を塗り、美しい夢の詰まった箱をつくり上げる。綿引のボックス・アートは、ジョゼフ・コーネルの憧れと架空の旅の詰まった箱にも似て、過去の自分の家族旅行や行事が追体験される記憶の劇場であった。

 しかしそうした治癒行為のような、自分の内側に向かった綿引の作品が徐々に転換を遂げるのが、1990年代の初めからであった。まず箱が大きくなり、幼年期の自分ではなく、現在の自分の姿が描かれ始め、次いで木やカンヴァスを支持体に、油彩、オイルパステルで描いた絵画を経て、和紙にオイルパステルという現在まで続く技法が選び取られていく。この手法で1996年に開かれた、150号の大作を10点近く並べた個展「たましいのつく食卓」(ギャラリー日鉱)こそが、綿引展子をボックス・アートの作家から、画家へと変貌させる転換期を画するものだろう。それは単に手法の転換ばかりではなく、アーティストとしての綿引展子が内なる自分だけに向けていた視線を、外に向けての表現に開いたという意味を持っていたに違いない。

 その後の綿引の制作の発展は、ガレリア・キマイラでの個展(2003年)、かわさきIBMギャラリーでの個展(2005年)や重要なグループ展への参加などで、遺憾なく発揮されていった。2007年6月、フィリピンのマニラで開催された、アジアのフェミニスト・アーティストのグループ展「トラウマ・インターラプテッド(トラウマの中断)」展に参加したことも、綿引の絵に、民族の悲惨な歴史と記憶が個人の記憶に深く影を落とすことに意識を開いていく契機となったことだろう。

 最後に、オイルパステルで描かれる綿引の絵画の特徴をまとめておこう。和紙にオイルパステルで塗りこめるように色を重ねることにより、和紙の表面が捩れて毛羽立ったようなテクスチャーを生み出す。これは綿引独自の描き方で、通常のパステル画の技法からは大きく外れている。しかしながらその毛羽立った和紙の表面は、独特のやわらかく温かい風合いを醸し出し、綿引の丸っこい頭部の人物たちの、芯にある棘のようなものにヴェールを被せている。

 綿引の絵に描かれるのは、いずれも綿引の分身のような丸い頭部の人物だが、彼女の詩か警句のようなタイトル、「考えるだけでいいだろう」、「背中のみえぬ悲しみのようなもの」、「むきだしの虚無」、「決意の手放し」、「のばしたさきの勇気」などが暗示するように、綿引の内部の空しさや怒り、悲しみを、精いっぱい伝えようともがいているように見える。絵の中の人物たちは決して大声を立ててどなったり、わめいたりしない。ただ大きく目を見開き、時にはむき出した歯を食い縛りながら、自分の中の怒りの衝動に耳を傾け、自分が生きていくことの意味を問い直している。そうしたかれらの(綿引の)静かな怒りは、争いの止まぬ世の中を生きていく現代人の、多くの人の心にひびくものであるに相違ない。

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